「手塚、あと残りどれくらい?」
「そうだな・・・あとはあのプリントを片付ければ終わりだ」
そう言った手塚の視線の先には、机の上に山積みになったプリント達。
「・・・結構あるね」
「ああ」
「いいよ、手塚。部活行ってきなよ」
「いや、」
「私もリョーマが終わるの待ってないといけないから」
「ちょうど時間潰しにもなるし」そう付け足せば、手塚は少し迷って「悪いな」と一言残し、生徒会室を後にした。
手塚の背中を見送って、山積みにされたプリントを前に「よし!」と小さく意気込む。
生徒会室には私一人。
一枚、一枚、プリントに目を通し、判子を押していく。
単調な作業ほど面白くないものはない。
カチ、カチ、という規則正しい音と合わせるように私は一枚一枚プリントを捲り、判子を押していく。
作業を開始して何分経っただろうか。
単調な作業に腕や肩が疲れてきて、一息つきがてら大きく伸びをする。
と、同時に窓の外から聞こえてきた歓声。
「ナイス!越前!」
「キャー!!」
「リョーマ?」
私は席を立ち、その歓声に導かれるようにテニスコートが見える窓へ向かう。
そこにはみんなの注目の的になっているリョーマがいた。
「ゲームセットウォンバイ越前!」
審判の声と共に更に歓声は大きくなる。
「勝ったんだ」
菊丸に頭を撫でられたり、桃城くん首を絞められたりしているリョーマを見て思わず口元が緩む。
「次は不二と英二!コートに入ってくれ」
大石くんの指示でコートのメンバーが入れ替わる。
リョーマは帽子を被り直して、コートの外に出た。
「さて私も仕事に戻るか」とその場を離れようとした時だった。
リョーマの元に駆け寄るおさげの女の子が視界に入る。
その子の手には真っ白なタオルが握られていて。
それに気付いたリョーマが振り返って、渡されたタオルを受け取った。
たったそれだけの事だった。
女の子がリョーマにタオルを渡した。
たったそれだけの事。
けど、その光景は私の気持ちを突き落とすのに十分だった。
リョーマは私の彼氏。私はリョーマの彼女。
そう自分に言い聞かせても、胸に残ったこの焦燥感と苛立ちが消えないのはきっと・・・
リョーマが一瞬あの子に見せた・・・笑顔のせい。
一番近くにいるはずの存在がとても遠く感じた。
私はゆっくり窓から閉めて、さっき座っていた椅子に腰掛ける。
部屋には、さっきと同じ秒針の音が響くだけ。
でも今は単調なその音がとても心地よく感じる。
(・・・仕事、しなきゃ)
仕事に集中しようとしても、頭に過ぎるのはおさげの女の子とリョーマの姿。
別にいいじゃない。リョーマが女の子と喋って、笑っていたって。
ごくごく普通の事なんだから。
私はリョーマより年上なんだから、大人にならなきゃ。
そう自分に言い聞かせて、再びプリントに判子を押し始める。
「よし!」
最後の一枚に勢いよく判子を押す。
これで今日の私の仕事は終わり!
「はぁー、疲れた!」
私は隣の椅子に置いてあった、自分の鞄を掴む。
そして生徒会室の電気を消し、ドアを閉めて、リョーマとの待ち合わせ場所に向かおうと一歩踏み出した時だった。
「」
真っ暗な廊下の中、いきなり後ろから肩を掴まれて。
「ひっ・・・!」
校内に残っている人なんて私以外いないと思い込んでいたから、突然の出来事に心臓が飛び出そうになる。
いきおいよく振り返りると、そこには手塚が立っていた。
「て・・・づ、か・・・」
「すまない。驚かすつもりはなかったんだが」
「・・・びっくりした。心臓止まるかと思った」
私の肩を掴んだのが手塚だとわかり、ほっと胸を撫で下ろす。
「全て終わったのか?」
「あ、うん!終わったよ」
「そうか、悪いな」
「ううん、私がやるって言った事だから」
「気にしないで」とそう返せば、「そうか」と手塚は少し微笑んだ。
「じゃあ、下に降りるか」
「うん、そうだね」
手塚が踵を返して、階段のある方へ向かう。
私は少し駆け足で、手塚の横に並ぶ。
真っ暗な廊下の中、響くのは私達の足音だけ。
「ねえ、手塚」
「なんだ」
「ジャージ、まだ着替えてなかったの?」
隣を歩く手塚はジャージ姿のままで。
「ああ。生徒会室の明かりがまだついていたからな」
・・・それってつまり私が残ってるって事に気付いて、部活終わってすぐ来てくれたって事?
「そっか、意外と優しいんだね。手塚は」
「生徒会長として当たり前の事をしただけだ」
「・・・その固いところがなければなぁ・・・」
「何か言ったか?」
ぼそっと手塚に聞こえないように呟いたつもりが、しっかり手塚の耳に届いていたみたいで。
「え、いやっ・・・!」
慌てる私を見て、手塚は小さく笑った。
「あ、今笑ったでしょ!?」
「・・・ふ、勘違いだろう」
「いや、勘違いじゃない!」
「」
いつも余裕な態度で私をあしらう手塚に悔しくなって、私は階段を降りたすぐそこの昇降口にリョーマがいるなんて思いもしなかった。
「あ、リョ・・・」
リョーマの存在に気付いた瞬間、もう一つの存在に気付く。
リョーマの隣に立っていたのは、さっきのおさげの女の子。
「あ、リョーマくん。わ、私帰るね。じゃあ、また明日・・・!」
「ん」
私達の存在に気付いたおさげの女の子は少し戸惑いながら、深く一礼して私達の前から姿を消した。
そして静かで、重苦しい、空気が流れる。
「俺はそろそろ部室に戻る」
そんな中、口を開いたのは手塚だった。
「、生徒会の仕事ご苦労だった」
「へっ、あ、うん」
「お疲れ様っす」
リョーマの前を通り過ぎ、手塚の背中が見えなくなる。そして、一つ視線。
その方へ視線を向けると同時にリョーマは私から目を背け、そのまま校門へ向かった。
「え、ちょっとリョーマ!」
急いでその後を追いかける。
走ってリョーマの横に並んで、チラッとリョーマの顔を見ればあからさまに不機嫌顔。
私の方が年上なんだから・・・大人にならなきゃ。
「リョ、リョーマ!今日試合勝ったんだね、すごいじゃん」
「別に」
「・・・だ、誰と試合してたの?」
「海堂先輩」
「へー、そっか・・・」
(駄目だ、どうしよう。会話が続かない・・・!)
「ねえ、」
「え?」
「なんで手塚部長と一緒にいたわけ?」
リョーマの鋭い瞳が私を捉える。
「なんでって・・・生徒会の仕事で・・・」
「で?」
「で・・・って、私がまだ残ってたから手塚は様子見に来てくれただけだよ」
「ふーん」
リョーマは納得いかなさそうにまた前を向き、すたすた先を行く。
「ちょ、リョーマ?!」
「アンタ、鈍感すぎ」
「・・・え?」
「男に隙見せすぎ」
「なっ・・・」
リョーマは足を止め、ゆっくりと振り返る。
「手塚部長がアンタの事好きだって、いつになったら気付くわけ?」
リョーマの大きな瞳に私が映る。
「な・・・え・・・何言ってんの?手塚は生徒会の仲間で」
「アンタはそのつもりでも部長は違う」
何、それ・・・
「アンタ、男にへらへらしすぎ」
リョーマのその一言に、私の中の何かが弾けた。
「リョーマだって、人のこと言えないじゃない」
目頭が熱い。
「女の子からタオルもらって、ヘラヘラしてたくせに」
「別にしてないし」
視界が歪む。
「そっか・・・」
年上なんだから、怒っちゃ駄目。
年上なんだから、大人にならなきゃ。
年上なんだから・・・
「じゃあ自分でも気づかないくらい・・・っ」
もう、疲れた。
「ごめん・・・」
リョーマを取り巻く女の子なんてたくさんいるじゃない。
「やっぱり2年の差は大きかったね」
それでも不安にならなかったのは、リョーマの態度が他の子に対して素っ気なかったから。
「私じゃ駄目だ」
リョーマが笑ってくれるのは私だけだったから。
「リョーマには、あんな子の方がきっと似合う」
私が特別な存在だって感じさせてくれたから。
「えへへ、私なんかと付き合ってくれてありがとね」
けど、もう・・・
「バイバイ、リョーマ」
年上だからって我慢するのは疲れた。
「っ!」
リョーマの声が聞こえた。だけど、振り返らず走った。
泣いているところなんて見せたくなかった。
私は最後まで“年上”というプライドに捕われてたんだ。
素直になればよかった。
年上だなんて、気にしなければよかった。
けど私は勝手に年上だというプライドで自分の気持ちを抑え込んだ。
年上だなんて、年齢だけ。
リョーマが他の子と仲良くしてれば、嫉妬だってするし。
リョーマが笑ってくれれば、周りが見えなくなるくらい幸せな気分になる。
「バカだなぁ・・・」
星空を見上げて、零れ落ちそうな涙を堪える。
今更気付いたって、もう遅いのに・・・
「ちょ、どうしたのさ!テンション低っ!」
私は器用な人間じゃない。
リョーマと別れた次の日に笑っていられるような強い人間じゃないから。
朝学校に来てぼーっと窓の外を眺めてたら、突然背中を叩かれて。
振り返れば友達の咲がいた。
「あ、おはよ」
「おはよ!・・・じゃないって。どうしたの?が元気ないとかめずらしい」
「そう?」
「うん、は笑ってるのが一番!」
「バカみたいにね」と、意地悪く付け足して笑う咲。
「で?リョーマくん?」
ああ、なんでわかってしまうのかな・・・
「リョーマ」
その言葉を聞いて、思わず溜息が出る。
「喧嘩でもした?」
「・・・ううん、別れた」
「は!?別れ、んぐっ!」
「声でかい!」
咄嗟に咲の口を抑える。
「ごめんごめん!」
息を整えながら平謝りする咲。
「何が理由で別・・・そうなっちゃったのさ?」
「んー・・・なんか・・・ね」
「え?」
「・・・どうしたらいいのかわかんなくなっちゃった」
「ふーん・・・あ、じゃあさこの際、手塚と付き合っちゃえば?」
「は!?」
嬉しそうに、ニヤニヤする咲。
思わず大きな声を出してしまい、クラスの視線が私に集まる。
「そんな驚くことないじゃん」
「いやいや、驚きますって」
「なんで?手塚、絶対の事が好きだよ」
「・・・それ昨日リョーマにも同じ事言われた」
「・・・へえ・・・さすがリョーマくん。気付いてたか」
私が黙り込むと、咲は「リョーマくんもやきもちやきだねー」と横で大きく伸びをした。
「あ、私トイレ行くけど、はどうする?」
「私は大丈夫」
「あまり思い込まないようにね」
「ん、ありがとう」
教室を後にする咲を見送り、私は再び空を見上げる。
物思いにふけっていると、突然ポケットのスマホが震えだす。
「えっ誰だろ・・・」
スマホを取り出すとディスプレイには“高山 咲”の文字。
あれ?トイレに行かなかったっけ?わざわざ電話なんてどうしたんだろう・・・
不思議に思いつつ、応答ボタンをタップする。
「はい」
『!ごめん!リョーマくんそっち行った!』
「は!?え!?」
『さっき廊下でばったり会っちゃって、の居場所聞かれてつい・・・!』
「ええ!?ちょっ!咲のバカ!」
『ほんとごめん!』
ブツッと切れる電話。スマホを片手に放心状態になる。
え、なんで・・・?
私達、昨日別れたはずでしょ・・・?
今、リョーマに会いたくない。
合わせる顔もない。
(と、とりあえず今ここにいたら駄目だ・・・!)
私は急いで教室を飛び出し、トイレと反対の方向へ走った。
の教室について、辺りを見渡すけどの姿は見当たらない。
そんな俺の姿に気付いて、数人の先輩達が集まってくる。
「あれ、リョーマくん!どうしたの?」
「先輩・・・探してるんスけど・・・」
「なら今さっき、慌てて出てったよ」
「なんだかすごい急いでるようだったけど・・・用件あるならよかったら伝えとこうか?」
(・・・逃げたな)
「いえ、大したことじゃないんで。失礼します」
俺は軽く一礼して、教室を後にする。そして、俺が来た方向と反対方向に足を運んだ。
「はぁっ・・・・はぁ」
少し走っては振り返り、リョーマがいない事を確認して、また走る。
運動部でもない私はもちろん体力があるわけでもない。
それでも走り続けるのは、リョーマに会いたくないというその一心だった。
「!」
突然名前を呼ばれて、反射的に走っていた足を止め、振り返る。
「・・・て・・・づか・・・」
肩で息をしながら、そこに立っていた手塚を視界に捉えた。
手塚の顔はいつも以上に真剣で。
「手塚部長がアンタの事好きだって、いつになったら気付くわけ?」
「手塚、絶対の事が好きだよ」
ふと二人の言葉が頭を過ぎる。
そんなわけない。手塚は友達だもん。
「・・・」
けど、私の名前を呼ぶ手塚の表情はいつもに増して真剣で。
鼓動が高鳴る。
それが走ったからか、それとも2人の言葉を意識してしまっているからか、今の私にはわからなかった。
「副会長が廊下を走るとは何事だ!」
「えっ・・・あ、ごめんなさい・・・・!」
真剣な表情から放たれた言葉は自分が想像していたものとは全然違って。
いきなり怒鳴られて、拍子抜けして呆気にとられる。
「まったくお前は・・・」
そう言って、一つため息をつく手塚にほっと胸を撫で下ろす。
咲やリョーマは勘違いしてただけ。
だって、手塚はいつもと変わらない。
「ごめんね、今度は気をつけるから」
「じゃっ!」と、右手を上げて手塚に背を向ける。
「!」
と、同時に廊下に響いたのはリョーマの声。
頭の中が真っ白になる。
どうしたらいい?どうするべき?
「・・・っ」
私はぎゅっと唇を噛み、振り返らず、その場から逃げ出そうと一歩踏み出したその時だった。
「越前」
この異様な空気の中、真っ先に口を開いたのは手塚だった。
予想外の展開に思わず振り返る。
手塚は真っ直ぐリョーマを見据えていて。
リョーマも驚いた表情を浮かべた後、静かに手塚を見据える。
2人の間に流れる緊迫した空気に私は思わず息を呑んだ。
「手塚部長」
静かにリョーマが口を開く。
「俺は部長の座も、も諦めるつもりないんで」
重々しい空気の中、ニッと口端を上げ笑みを浮かべるリョーマは本当に大したものだと思う。
でも、何よりも私はその言葉の内容に驚いた。
なんで・・・私達はもう別れたんだよ・・・
それになんでわざわざ手塚にそんな宣戦布告みたいなこと・・
それじゃまるで・・・
「・・・ああ、全力でこい」
けど手塚はその言葉を否定することもなく、そう答えた。
そして少し悲しげな表情を浮かべた。
「てづ・・・」
「お前達、授業には遅れるなよ」
「うぃーっす」
「え、は?!」
『お前達』って何!?
それだけ言い残して、手塚は私達に背を向け、教室の方に戻っていった。
ちょ・・・っ置き去りですか!?
恐る恐るリョーマの方を見れば、バチッと音が鳴りそうな勢いで目が合う。
一歩、二歩と少しずつ後退る。
「俺から逃げれると本気で思ってるわけ?」
逃げれるわけない。
頭ではそうわかっているのに、人ってどうして足掻いてしまうんだろう。
リョーマの思い通りになりたくない。
プライドがまた素直になる事を邪魔する。
「、にゃろう」
私が踵を返して走り出すと同時に、後ろから足音が近付いてくるのがわかる。
テニス部と帰宅部。捕まるのは時間の問題。
きっとこの数秒後にはリョーマに捕まってしまう。
「・・・っ!!」
案の定、リョーマに腕が掴まれる。
「やっ・・・!はなして・・・っ」
「はなさない」
「な・・・んで・・・?!私達別れたんだよ!?」
「俺は別れるなんて言ってないけど」
「それでも私はっ・・・もう決めたんだから・・・っ」
肩で息をしながら、一つ一つ言葉を紡ぐ。
掴まれた腕を振り払おうとしても、振り解けない。
「じゃあ、なんで泣いてんのさ」
泣かない。
自分で決めたこと。
泣く資格なんて私にはない。
なのに・・・掴まれた腕から伝わるリョーマの温もりが、リョーマの言葉が・・・
こんなに愛しくてたまらない。
「泣いてない」
「泣いてる」
「泣いてないってば!もう、」
駄目。
この続きを言ってしまったら、本当に終わってしまう。
だけど・・・
「ほっといてよ!」
喉まで出掛かった言葉を押し込むなんて出来なかった。
「ほっとけないから、今ここにいるんだけど」
私の言葉に動じる事なくリョーマは私を見据える。
真っ直ぐで・・・力強い瞳。
「俺はを手放すつもりなんてないから」
「アンタが嫌って言ってもね」そう付け足して、リョーマはあの挑発的な笑みを浮かべる。
ああ、もうどっちが年上かわからない。
「それに俺は嬉しかったけど。が意外とやきもちやきなの知れて」
「なっ・・・!と、年下のくせに生意気・・・」
年下の君の一言一言でこんなに心が揺らぐなんて、私も・・・
ま だ ま だ だ ね
(真っ直ぐ気持ちを伝えてくれた君に、少し素直になってみようと思ったんだ)